巨大魚写真に魅せられて
メラメラと魂が燃える鯛釣り
巨大魚写真に心が騒ぐ。こんなに大きな魚が釣れるのか
時折訪れる宿がある。静岡県下田市にある『ガーデンヴィラ白浜』だ。宿からアプローチできる地磯があり、朝と夕方はそこで竿を振る。主にメタルジグを遠投するショアジギングをしているのだが、釣れないことはほぼない。腕が良いのではなく、場所がいいのだろう。時には良型の青物が上がる。
夜は決まって、ホテルを立ち上げた宝田社長夫妻と酒を飲む。娘の麻理子さんにお子さんが生まれた時、偶然見つけたサントリーの「響」を奮発して持って行った。麻理子さん夫婦にいつか飲んでもらおうと思っていたのだけど、社長とほとんど飲んでしまった。商社マンから脱サラした宝田社長は酒が強く、飲ませるのも上手だ。そして、何より話がダイナミックでおもしろい。おもしろい話は最高のつまみになる。
この宿に泊まっていた時のこと。良い魚は釣れたかい?と、男性に話しかけられた。数日前から泊まっていたドイツ人だった。休暇で下田を訪れたのだという。釣果は芳しくなかった。ワカシ狙いで早朝と夕方、ジグを投げ続けたけれど、エソが数匹釣れた程度だった。エソ(Lizardfish)を英語で説明できなかったので、写真を見せた。「おお、良いじゃないか」と彼は何度もうなずき、顔をほころばせた。
「僕も今朝、釣りに行っていたんだよ」と彼は言う。
「ほう、あなたも釣り人なのですか」
尋ねると、彼は曖昧に首を振り、「僕は自分自身をフィッシャーマンとはいえないね」と言った。
どういうこと?
彼は宿の人に釣りができる場所はないかと聞き、遊漁船を紹介されたのだという。その船に乗り、釣ったサバを生き餌にして大きな魚を狙ったという。
「君はモロッコって知ってる?」と聞く。
「モロッコ?」
僕が首を傾げると、彼はiPhoneの写真を見せてくれた。
モロッコじゃなくて、モロコ(クエ)だ。それにしてもでかい。30キロオーバーで、その船のシーズンレコードだったそうだ。
……僕はこんな大きな魚を釣ったことがない。さっき見せたエソの写真が恥ずかしくなった。
「すごいじゃないか」と、羨望(20%)と悔しさ(80%)が入り交じった感想と共にiPhoneを返すと、彼は首を振った。
「いや、僕はボス(船頭)の言う通りにしただけだよ。サバを釣って、エサを泳がせて、リールを巻いただけさ。君は自ら海へ行き、場所を探し、ルアーを投げた。そして釣り上げたんだ。君こそが真のフィッシャーマンだよ!」と、全肯定で滅茶苦茶褒めてくれる。
Danke schön(ありがとう)!
……いや、褒めてもらってうれしいけれど、僕の魚は30センチ。君の魚は30キロだ。「真のフィッシャーマン」じゃなくても良い。僕もこんなでっかい魚が釣りたいと、魂がメラメラ燃えた。
早速、麻理子さんに船を尋ねると、下田柿崎港の『兵助丸(ひょうすけまる)』だと教えてくれた。船が比較的大きく、出港率が高いそうだ。若くして父の後を継いだ頼もしい船長がいるそうだ。今すぐにでもその船に乗りたかったが、東京に戻らなければならなかった。真のフィッシャーマンにも仕事があるのだ。
「波が高く、船は揺れる」と聞いた瞬間、帰ったおじさん
数ヶ月後。また下田にやって来た。モロコのシーズンはすでに終わっていたので、兵助丸で真鯛を狙うことになった。
FISHUP MAGAZINEのアートディレクター、伊藤正裕さんと待ち合わせて港へ向かう。国道135号線沿いのセブンイレブンで朝食用の焼きそばパンを買い(これが後に悲劇を生むのだが)、須崎方面に向かう真っ暗な道を走っていると、明るく輝く『釣り宿 兵助屋』の看板が見えた。
兵助屋の扉を開けるとすでに5名の先客がいた。距離感から察するに、全員がソロの釣り人たちで、それが乗合船独特の緊張感をさらに高めていた。まるで西部劇に登場する酒場のようだ。全員が僕らをじろっと見るが、すぐに興味を失ったようだった。空気が重い。
乗船名簿に住所と名前を書き、傍らの男性に渡すと、「あ、私も杉並区なんですよ」と白髪のおじさんが微笑みかけてきた。同郷のおじさんがいて少しホッとした。しかし、その後は誰と会話をするでもなく、天井に張られた巨大真鯛の魚拓を見上げていた。時折、伊藤さんが押すシャッター音が静かに響く。人生であんなに長い間、魚拓を眺めたことはなかった。
船長の鈴木俊和さんからお茶をいただく。それが合図のように船長が小さな声でぽつり、ぽつりと話をはじめる。今日向かう予定の場所を地図で示しながら、「昨日までのシケで波が高く、船はわりと揺れるはずです」と言った。客の沈んだ雰囲気は、波への心配だったのかもしれない。すると、杉並のおじさんが「申し訳ないけど、今日はやめます」と言って席を立った。
え、帰るの? 杉並区から下田まで来て? このまま東京に引き返すのだそうだ。決断力すごくないか。その潔さに驚きつつ、どれくらい揺れるんだと不安になった。
出港後、まだ暗い海を眺めながら、本当に波風で揺れるのかなと思った。くじ引きの結果、僕は右舷の胴の間(中央)、伊藤さんは右舷トモ(船尾)に陣取ることになっていた。ミヨシ(船首)の人にあいさつをする。一番揺れる場所を選んでいたし、電動リールを使っていないシンプルな道具立て、その身のこなしからかなりの上級者とお見受けした。
船は柿崎港を出発し、南へと向かう。遠くに発電所の風車が見える。伊豆半島最南端の石廊崎沖あたりで竿を出すことになった。午前中は波風とともに、比較的穏やかでなんとか釣りはできるだろうということだった。今回はコマセ真鯛釣り。シマアジも回っているので、運が良ければ出合えるかもしれないと船長は言う。
石廊崎沖、船も心も大いに揺れる
船長の合図で真鯛のコマセ釣りが始まった。青い海がぐーっと迫ってくる。船は大きく揺れ、今度は空が見える。港を出たときは「本当に揺れるのかな」と思った自分を力なく笑った。足を踏ん張り、腹に力を入れる。この揺れの中で5時間か……。始まったばかりだというのにゲンナリした。
伊藤さんもゲンナリしているようだった。揺れの中、針に尾を切ったエビを丁寧に刺し、コマセかごに解凍したオキアミを入れる。釣りの船酔い対策として、遠くを見ろと言う人がいる。しかし、釣りは手元の作業が多いわけだから、事実上まるで役に立たないアドバイスだ。ぶつぶつ文句を言いながら、仕掛けを海の中に投入した。
コマセ釣りの仕掛けはとても合理的だ。リールから出たラインはコマセかごと天秤につながっている。天秤とハリスの間にはクッションゴムが付けられている。クッションゴムは魚の引きを和らげ、ラインへのショックを吸収してばらしを防いでくれるのだ。ハリスは長く8メートルもある。魚のいるタナにコマセかごを落とし、ゆっくりとしゃくるとかごからエサが出てくる。船でいっせいにその作業をすると、船の下に魚が集まってくる。運良く針に付いたエサを食ってくれたら釣れるというわけだ。
釣りは縄文時代から続く人類が積み重ねた英知の結晶なのだと考えると、途端に釣りは崇高な遊びのように思えてくる。そんなことを考えるのも船に酔わないためだった。集中だ。釣りに集中するのだ。
船が揺れる。左側にいるミヨシの達人を見ると姿勢が良い。船の中で一番揺れる場所なのに、動じている様子がない。体幹ができあがっている。彼はすでに何匹かイサキを釣り上げていた。それに比べてこちらはすでにダウン寸前だった。揺れに加え、体調も悪かった。
前夜の酒、寝不足に加え(やはり宝田社長と飲んでしまった)、今朝の焼きそばパン(なぜ、そんなものを食べた)という自業自得の見本のような状態だった。出港当初の興奮が収まり、環境を受け入れるようになってきた。簡単に言うと船酔いだ。
何度かトイレに駆け込んでリバース&リセットを繰り返す。水分を多く取り、船の揺れに逆らわず、船と一体になるように身を委ねる。昨日の酒がリセットされたようで、気分も少し良くなった。揺れも慣れると心地よくなる。波と空のゆりかごに揺られ、うとうとしていると、伊藤さんが「来た!」と短く叫ぶ。巻き上げてみると30センチほどのイサキだった。その後、立て続けに伊藤さんがイサキを釣り上げたが、こちらはなんのアタリもない。僕の負のオーラが糸の先に伝わっているんだろうか。
ようやくのアタリ。この魚、かなり重い
しかし、釣れない理由が負のオーラだけではないと考える男がいた。鈴木船長だった。ふがいない僕を見て、おそらく職業的使命感に燃えはじめたのだ。
「井上さん、ちょっとリールの調整しようか」と、操舵室から声をかけられた。船長の言う通りに、電動リールを操作し、針とカウンターの位置の誤差を無くす微調整をした。これで魚探で見える魚影近くにエサを流せるはずと言う。エサを丁寧に付け直し、コマセも目一杯入れず、まきやすいよう少なめにする。改善できるところは、少しずつ改善していこう。指示ダナの50メートル付近に落とす。ゆっくりとしゃくり真鯛を誘う。
海中をイメージする。ゆっくりと竿をしゃくり、コマセかごからオキアミを出し、針の付いたエサを漂わせる。下田の海にいる鯛よ。俺のエビを食ってくれ。
それにしても、魚のいるタナって、そんなに厳密なものなのだろうか。自然界にいる魚なんだから、気まぐれで違う層を泳ぐこともあるだろう。そもそも、皆が同じ場所に漂わせていたら確率は下がるじゃないか。などと考えているときに、ぐーんと竿が曲がった。コマセかごが重く、魚はクッションゴムの先にいるので、竿が曲がっても魚の感触があまりわからない。それでも竿が曲がるので電動リールで巻き上げ、10メートルあたりからは手動で巻いていく。
お、重い。
船長がたも網を持って海をのぞき込むと、急に大声を張り上げた。「もっと巻く! ゆっくり! 竿を置く! 最後は糸持って取り込む!もっと寄せて!」と、的確な指示を入れてくる。
声もでかいし、朝のミーティングの時とは別人のようだった。ミヨシの達人もこっちを見ている。遊漁船の船長は人に魚を釣らせる時が一番興奮するのだろう。
海中に黒い影が揺れる。黒い塊が光を捉え、赤色の魚影が現れた。真鯛だ。
竿を置き、道糸をたぐり寄せる。真鯛を横向きにして空気を吸わせ、戦意をなくさせる。でかい。70センチ近い大型の真鯛だった。体高も厚い。興奮した船長に魚を持たされ、写真を撮られる。僕の魚の持ち方が悪いらしく、指の置き方から魚の角度まで指示された。ミヨシの達人も「でかいね!」と祝福してくれた。船酔いもどっかへ行ってしまった。
さらに数分後、大きな引きがあったけれど、あと数メートルのところでふっと軽くなった。回収した仕掛けを見ると、ショックリーダーごと切られてしまっていた。船長は「シマアジだね」と言うが、ミヨシの達人は「あれは、もっとでかい鯛だ」と耳打ちしてきた。昔から逃した魚は大きいと言うが本当だ。いったいあいつは何者なんだと考えると悔しさが嬉しさを上回る。
次はもっと効率的に竿を出したい。道具立ても考えよう。チャンスをしっかりものにしよう。体調も整えよう。前夜の酒は断ろう。頭の中で次の釣りを考える。
人はこうして、釣りの深みにはまっていくのだろう。僕はドイツ人の言う真のフィッシャーマンではない。だが、不器用だけど、その姿を追い続けるのだ。まずは、出航前の焼きそばパンはやめよう。話はそれからだ。
アクセス&旅のガイド
伊豆下田へは伊豆急行線が便利です。最寄り駅は伊豆急下田駅で、駅周辺には下田の自然や文化を楽しめるスポットが豊富です。駅早朝の釣りは車で訪れるか港周辺で前泊しましょう。